一人飲み
一人飲みに来ている。仕事が終わってそのまま。
最近は仕事が忙しいのか、忙しくないのかは分からないけど時間が過ぎるのがとにかく早い。気付いたら木曜になっていて、華金を迎えて土日。どっかに出かけて明日からまた仕事だなぁの繰り返し。気持ち的にはまだ9月の気分でいる。
毎日仕事で日付を書くことは機械的でただ数字を書いているだけ。給料日やカードの引き落としで日付を意識することが多い。あとは誰かの約束とか。気付いたら時は進んでいる。
次に意識するのは多分12月の頭だと思う。クリスマスだの年末だの、実家に帰るために交通機関の予約と友達と会う約束で気付いたら年末になっている気がする。
それで一年が過ぎて、冬の寒さのなかに春という暖かさを感じてまた季節は進んでいく。
なんとなくで進んでいくことに対して爪痕を残すことと、一日外にいてまだ時が進んでいないような感覚を目処に一日一日を感じていて過ごしていきたい。
社会人になって
前回から大分空いてしまった。社会人になりました。
地元を離れて、初めて東北に来た。そしてバイクを買って週末には様々なところに出かけている。仕事はまぁぼちぼちと。
ーー社会人になって…と社会人であろうが何者であろうが別にいいんだけど、大きく転機を迎えたと思う。一人暮らしを始めて少し落ち着いて、仕事にもちょいちょいと慣れ始めている。
仕事に関して言えば完全に男社会の業界に入ったのもあるけど厳しいと思う。まぁ他の職場を経験したことないから何とも言えないけど。
1から教えるんじゃなくて、4〜5ぐらいの説明しかしてくれないからいつも???が仕事中に付き纏う。歳近い人がいないっていうのもあるけど、頭ごなしに命令される。寄り添って隣の目線で説明してくれるのではなく、圧倒的に上から物を言われる。10年以上この業界で働いてきた人間とまだ入って2〜3ヶ月のペーペーでは、世界線が全く違うのは仕方ないんだけどもっと優しくしてほしい。
誰もがそういう思いを入社のときにしたのに、何で自分がいざキャリアを積むと当時の気持ちが薄れるのか不思議でしょうがない。「責任は俺が取るからとりあえずやってみな、とりあえず考えてみて分からなかったり相談したければいつでも遠慮なく聞いてくれ。」ぐらい言ってくれれば頑張れるし伸び伸び働けるのに。誰もが自分のことで精一杯なのかもしれない。
「やれ」としか言われず、その足場掛けもなくひたすらに右往左往している。
色々とめんどくさいよなぁ、、、
最後だと言う言葉に
最後なんだからとそれらしく「最後」という言葉を使うけれど、最後に関わらず日々は進んでいくし本質的な部分は変わらないと思う。
自分のドライさ故かもしれないが、最後だとハードルを上げることによって、翌日がまた違うもののように自分でしているのではないだろうか。自分自身が勝手に大袈裟にしているだけで。
まぁ生活リズムは徐々に慣らしていかないとな…
諦めると僕らは何故か少し生きやすくなる
タイトルは神聖かまってちゃんの死にたい季節から。
自分の逃げ場を作る。どんな形であっても。
相手でも物事でも迫ってきたことに対して、誰も知らない自分だけの秘密を持つ。
その誰も入れない自分の秘密を保険に、なんとなく過ごしやすく、生きやすくなる。
シャットダウン。唯一の選択肢を控え、最悪の事態に用いることによって、あとは関係ないと言ったような行動を取ることも出来る。
嫌いになられる前に嫌いになる。毒を持って毒を制す。先手や諦め、無関心を取ってしまえばきっと傷付かずに済む。確かにそうだ。
だが、そこに甘んじて目の前のことや人に向き合えないのも情けないとも感じてきた。傷付くのを恐れて保険を先に取り、安全地帯に先に入るような。彼女が男友達と仲良くしてるから、こっちも変に関わりを持とうとするような。上手くいかないことに対して諦め、LINEを非表示にしてしまうような。相手にそもそも本気にならないような。確かにスゴい楽だ。
けど、その安全地帯から見る景色はどこか虚しく痛い。なら100%当たって受ける悲しさの痛みの方が軽い気もする。
春になって
春になった。桜の花びらが街中に溢れる。
夜には上着がいらなくなり、日中の太陽の下では少し汗ばむような気温。転機を迎え社会人になることは置いておいて、季節の変わり目はなんとなくワクワクする。
暦の上で日付は進んでいても、実際目の前で意図もせず、ふとした瞬間に季節は進んでいると実感する。
今年というかこの一年は、今まで生きてきたなかで一番季節を感じたと何故か思う。
就活を終えて春は緊急事態宣言が出たため、桜どころではなく家に籠りギターやらゲームをしていた。
夏は緊急事態宣言解除に伴い、地元でプールの短期バイトを始め大きな夏の雲の下を自転車で走った。背中はびっしょり。知ってる中学や高校出身の人しかいなかったためスゴい懐かしかった。
秋は金木犀。金木犀の匂いと金木犀自体を初めて知った。半袖にシャツを羽織るような気温と珍しく一年に秋がちゃんとあって紅葉の写真を何枚も撮った。
冬は卒論に追われて、気付いたら日付が進んでいた。なんだかんだ一番遊んでいた季節でもあったのかもしれない。
そして一周した。
かつて自分は他人をほとんど信じておらず一人で生きてきたつもりだった。視野が狭かったと今になって思う。一つのことが自分を構成していると考え、その一つにこだわり劣等感を抱いていた。
友達や家族、頑張れる場所があるのは素晴らしいことだ。もうそれだけで満足だ。
他人とは
自分は他人を求めるより求められてきた。と思う。ブログでもちょいちょい書いているが他人と自分については大きなテーマだ。
人間関係については冷めてるときもあるし、熱いときもある。ほんと中途半端。
例えばありがた迷惑に思っても、結局自分にしてくれたことは嬉しくて素直に感謝している。
恩を与えているつもりはない。けど最後に渡してくれることが多い。
例の如くバイト先の話になってしまうが、個人的にそんな仲良くないと思っていたのに言葉をかけてくれたりプレゼントを貰ったり奢ってもらったり。自分でも何様だとは思う。
しかし、実際に人との縁なんてすぐに切れてしまうし仲のいい友人でさえもなんとなくお互いの道を歩んでいる。こういう面で自分をあまり客観視することが出来ない。
でも間違いなく仲良くないから、話すことがないからと言って他人を下に見たことは一回もない。
礼儀と筋は通したいし挨拶とか思いやり、相手の気持ちに立つのは気を付けてるしそれが出来ないのは自分のなかで自分に通さない。
こんがらがってきたので寝る。
つながり
誰かにしてもらったことや言ってもらった言葉は今でも覚えている。忘れたのもあるんだろうけど圧倒的に覚えている。
春は別れの季節だ。23年いた地元を離れることが決まり、家族や親戚の労いの言葉や友達との関係、バイト先の人のことを改めて思う。
愛されていた。そこまでしなくてもいいのにと思うことまで。自分が関わる人なんて当たり前に自分の味方しかいないんだけど、ほんと恵まれていた。
別れる寸前になんとなく今までの関係は分かる。現実的で薄情なやつだから「俺なんかにそんな言葉を使わないでくれ」と思わず言ってくれた言葉に対して真っ直ぐその人の目を見ることが出来ずに目を伏せてしまう。自分がそんな顔をさせたくない。もっと嫌味の一つか二つでも溢してくれた方が楽だったりもする。
そんな人たちの為に結局出来ることは、俗に言う恩返しと言った意味合いでもなく俺自身がもっとデカい人間になることだと強く思う。想いを通じた優しさを背負っていくこと。そしてその想いを未来の自分の関わる誰かにまた繋げて優しくなることだと思う。
直接出来ることは少ないし限界がある。現実的に考えてその日は感極まっているけど、案外人は適応するし徐々にお互いがいない日々にも慣れていく。
だからこそ自分がほんの少しでも想いを紡いで大きな人間になることで、結果的に関わっている人や関わっていた人たちの価値や肯定にも繋がると思っている。